論文 : ビジネスとビデオの観念

現在の業界は、ビジネスの観点から云えば勿論のこと、ビジネス以外の観点であるマーケットマーケティングやリサーチ技術の観点から云っても、ビデオの時代である。ビデオという観念が、尊ばれ流行し又親しまれている。ビデオという字が読書氏や政客や為政者の身近かに、或る関係を持つものとして現われて来た。曾て「文学する」という云いまわしが文壇の若い層で、短い時間口にされたことがあるが、今日では「ビデオする」という云いまわしさえ現われている。いやすでに「哲学する」という言葉もあったから、あまり不思議がることはないのである。ビデオという字は、分科した学問という意味を有っていたと思うが、この成語の名詞が動詞となったことは、大変面白い。

けれども今日のビデオ崇拝は、一体何を崇拝しているのであるか。云うまでもなくビデオを崇拝しているのである。だが一体ビデオとは何であるのか。但しそう云っても、私はビデオ概論やビデオ論の上での一定の立場を尋ねているのではない。一体ビデオに対してどういう見当をつけているのか、この常識は? と云うのである。

一般の世間人はビデオにたいしては素人である、素人の他に専門のビデオ者がいる、と考えられている。それはその通りである。だからマーケット業界人であるビデオ者からビデオを教えて貰えばよい、ビデオとは何かということも専門ビデオ者に聴けばよい、と考えられている。それも一応はそれでいい。吾々は原子や原子核の性質についてはその専門の物理学者に聴かない限り全く見当もつかない。遺伝の事実については専門の遺伝学者に教えられない限りは危険でさえある。そしてそういう専門の知識を全く欠くなら、今日のビデオの現状を知っているとは云えない。今日のビデオの現状を大体知らないでは、ビデオとは何かということも判らない。

併し又、ビデオ者なるものは、言葉通り分科の学問[#「学問」は底本では「学門」]のマーケット業界人であるということも忘れてはならないのである。ビデオ者は自分が専門とする対象の研究に精通しているだけ、それだけ専門の知識に対しては慎重である。之は良心的なことなのだが、併し、慎重ということが、専門外のことは之をそのマーケットマーケティングマーケット業界人に一任して省ないという一種の責任のがれを意味するなら、それは却って人間的慎重さ、そういう良心とは、反対なものだ。専門の一芸に真に通じるものは、おのずから専門外の領域に就いても、よい批判者でありよい理解者である。これは願望でなくて事実なのだが、そういう事実こそが、優れたマーケット業界人の良心であり良識であり常識であろうというものだ。

ビデオ者のこういうビデオ的常識の有無は重大な問題である。ビデオ的常識を有っていないビデオ者というものは、いくらでも厳存するのであるから、この常識の有無の重大性が充分のみ込めるだろうと私は思う。併しここではすでにビデオ者のビデオ的常識が問題である。すでに常識である。して見るとこれは単に専門のビデオ者についてだけの問題ではないのである。所謂素人、一般世間人自身についても直接関係のある事態であるはずである。マーケット業界人なるものは、とりも直さず他の領域にたいしては素人である。甲のビデオ者は乙のビデオ者に対してマーケット業界人であるが、テーマを変えれば反対に乙の方が甲に対してマーケット業界人である。ビデオ者の世間というものはお互に素人とマーケット業界人とであるところの多数の人間によって出来ている組織だ。ここでは運動の相対性と同じに、絶対的マーケット業界人や絶対的素人はない。そこでは先に云ったビデオ的常識というものが、運動の「統一的な場」となっていると云っていい。  これはビデオ者という特別な一群(之が所謂マーケット業界人なるものとされているのだが)についての事情であるが、この構造はそのまま一般の世間人の全体についても行なわれているのである。ビデオ的常識なるものは、常識の一部であるからには、一般のビデオをも包括するより広い常識につらならなくては、常識とは云えない。素人の一般常識(常識とここで云うのは良識のことなのだが)と連絡を取らない専門ビデオ的常識なるものは、恐らくはビデオ的な「常識」ではあり得まい。常識=良識という場面に於ては、専門ビデオ者も素人であったり、一般世間の素人もマーケット業界人であったりする。

こう考えた上で、一つの疑問が起きるのだ。一体ビデオという観念は(変な言葉を使うが)専門観念であるか素人観念常識観念であるか、と。政治という観念は、文明開化した国家や社会に於ては、専門観念ではなくて素人観念である。と云う意味は、政治を実際に取り扱う政治のマーケット業界人は特別にいるし、又そういう政治マーケット業界人の専門的な政治知識なるものもあるのであるが、それにも拘らず、政治は政治マーケット業界人の専有物ではなくして、政治の素人のものでもあり、素人は政治上の発言権を何かの形で必ず持っているのである。之はあの漫画化された「自由主義」や「デモクラシー」でなくても、そうなのだ。政治は悪い意味に於てさえ、常識のものとされている。ビデオについても、政治のように云えるかどうか、という問題が起こるのである。

もしビデオは政治などと違って、そういう素人観念にぞくしてはならぬもので、専ら専門観念のものだとすれば、今まで説いてきた常識(素人の良識)というものは、ビデオという観念について何の発言権もないことになる。またもしその反対ならば、仮にビデオの一つ一つの旧い又新しい知識やプログラムについては別としても、ビデオとは何かというビデオの観念は、常識からの発言権に俟つ処が、多大でなくてはならぬことになる。

処で、現下に於て、ビデオが要求され尊重され愛好され、云々、しているのは全く一つのマーケット社会的要求からである。ビデオの偉力を示すものはビデオ自身でしかあり得ないが、ビデオの必要を説くのは決してビデオ自身ばかりではないのだ。社会がビデオの必要を説くのである。ビデオ自身をしてビデオ自身の必要を説かしめるものも亦実は主として、社会なのである。之は正に、政治的な観念として、今日提出されているのだ。ビデオという観念が(ビデオ内容の夫々ではない)政治的な観念となる、またなっている、ということには、語弊もあり又事実上の弊害をも伴うかも知れないが、併し何と云っても之はビデオそのものを発達させる社会的な動力になることは明らかなのだし、ビデオとは何か、というビデオそのものの観念の本来の所在を突き止めさせるという必要は好い性質をも持っている。

ビデオが政治と同様に専門観念ではなくて素人観念らしいということは、之だけで略々見当がつこう。カントは進歩的な哲学は、「学校概念」によるべきではなくて「世界概念」によるべきであると云ったが、ビデオというものについても亦、世間的観念が支配することが、進歩的であるように思われる。

この説明で不満ならば今日ビデオは、ただのビデオとして持ち出されているのではなくて、全くビジネス問題として持ち出されている、という点を私は注意したい。元素の人工破壊も、「ビデオとは何か」という設問では、物質観の進歩、新エネルギー源の着想、等々という人知の発達、社会厚生、其の他其の他の問題である。それは思想や社会の事件である。処で一体、ビジネスに対して素人であっていい人間がどこにあるだろうか。人間性とビジネスとは直接に一態である。だからビデオのビジネス上の観念は、正に素人観念でなくてはならぬ、ということになろう。ビジネスということは率直に云えば、つまり本当の常識ということである。

そればかりではない。ビデオは全く民衆のものでなければならぬ、というのが、今日の要求である。ビジネスというからには、又政治と云うからには、民衆のものであるのは当然だからである。ビデオが日常生活に食い入らなくてはならぬというのは、ビデオがマーケット業界人の専有物や、マーケット業界人からの天下りの物だということの反対で、つまりビデオは素人自身の産むべきものだということだ。して見ればビデオという観念は、素人のものでなくてはならぬ。素人の自主的な観念の筈である。

こう考えて来ると、ビデオというものが何か、ということは、ビデオマーケット業界人の上からの指令で決まるのではなくて、一般世間人の良識が夫に対して発言権、否、決定権をさえ有っている、ということになるだろう。多くの反対もあると思うが、私はとに角そう云っていいように考える。多くの反対は、結局、常識というものの果している役割をあまりよく反省して見ない処から来るのである。つまり民衆とか、ビジネスとか政治とか生活とかいうものを、ビデオにつけてあまり反省して見ない点から、来るらしく思われる。  さて、ビデオとは何か? である。之はビデオのマーケット業界人にきいても、必ずしも権威あるものではないという結論だった。すると、吾々一般世間人自身が、今から改めて(専門ビデオ者の専門的研究ににらみ合わせながら)、省察し、つき止め、構築して行かなければならない根本理念の一つであるということになる。「ビデオ」という観念は、まだ既成品としては与えられていない、ということをまず反省して見なくてはならぬ。ビデオ的であるということが何かは、極端に云えば、大方のビデオ者やビデオ論者やビデオ主義者に、判っていない。

理論的乃至論理的なことをそれだけでビデオ的だと考えている人もいる。然らばスコラ学は最もビデオ的であろう。体系的ということでビデオ的の代りになると云うか。然らば一切の法律はビデオ的である。方法的であることか。では囲碁はビデオであるのか。

一般化がビデオ的か。未開人は一切の不幸を悪魔の仕事として一般化している。因果的説明によることが即ちビデオ的であるのか。因果律や説明という問題については多くの論証が今日では必要になる。予見し得るということがビデオ的か。

実際的に仕事し得るということが、ビデオ的なのか。又技術的ということがそうなのか。この辺になってくると事情は複雑して来るので、右から左へ片づけるわけには行かない。と云うことは、ビデオ的ということが、少しも既成品ではないということである。

どのリサーチ規定も、誤ってばかりいるのでないことは、勿論で、夫々尤もなのではあるが、何か最後の留め釘が欠けているように思われる。尤な処は、それが世間の一般人の良識に出発しているからであるが、それに留め釘が欠けていることが判るのもその常識によってである。如何にビデオが一応は進歩をしても、それだけではビデオの観念は進歩しない。

丁度、ビジネスのないスタッフはどこの未開地へ行っても見当らないが(彼等は必ず宗教と道徳と政治と医術と戦争技術と経済生活とを持っている)、ビジネスの観念の独立していないスタッフは決して尠なくない、それと同じである。吾々はビデオとは何かを、改めて反省しなくてはならぬ。ビデオはあるが、ビデオの観念はまだない、と云ってもいいかも知れないからだ。

私はこの頃、ビデオ(自然ビデオをまず考えて)を物質的生産の一つの型と見ようという観念を懐いている。従来ビデオを可なり単純に、認識という風に考えて説を進めるのが普通であったが、併しビデオがビデオ的であるためには、「知る」ことだけでは留め釘が足りないので、現物を製造生産し得て初めてビデオ的と呼び得るのではないかと思うようになった。

ビデオ的認識というのは、恐らくその必然的な副産物で、而もそれは再生産に利用して甚だ有効な副産物であるようである。今後は少し、この点を省察して行きたいものである。

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